蘇州・上海旅行(3)



「周荘」を午前中半日掛けてじっくり周遊した後、蘇州市内に戻り昼食、午後は先ず
「寒山寺」に向った。

「寒山寺」は張継の七言絶句「楓橋夜泊」で、又、毎年大晦日NHKの「除夜の鐘」中継
放送でお馴染みですので詳述は避けますが、建立は517年で当初は「妙利普明塔寺」
と呼ばれた約1500年の歴史を持つ古寺ですが唐の時代、名僧、寒山と拾得がここで
修行していた事から「寒山寺」と名を変えたとされています。
同寺は過去数度焼失し現在のものは清朝末期に再建されたものです。



毎年、放送される鐘楼の鐘は明治時代に伊藤博文首相より贈られたもので、我々は南シナ海を渡って来る日本製の鐘の音を聴いている訳です。

「寒山寺」を出て「虎丘」に廻った。
蘇州を訪ねて「虎丘」に行かない人はいないと云われるが、呉王「闔閭」(こうりょ)の墓地である。市の郊外西北にあるちょっとした小山で王の死後十万人を徴用して三重の廓を作り、三千の名剣を埋めたそうです。
その後270年を経て天下を統一した秦の始皇帝がその名剣を掘り出そうとしが突然に
猛虎が現れた為に果せなかったと伝えられている。

その時、始皇帝が振り回した剣で傷ついた石がこれだと説明された石があったが、何しろ紀元前の話だ、真偽の程は別にして、中国の話しはスケールが大きいと云うか、
全くもって歴史の国である。

又、山への登り口に小さな池があるが盗掘の為掘り始めて出来た窪地に水が貯まって出来たもので「虎丘剣池」と呼ばれている。そしてそこには、唐の時代、中国書家の第一人者と呼ばれた「顔真郷」の筆による自然石に彫られた「虎丘剣池」の碑が残されている。


話しは逸れたが、虎丘の山頂には雲岩山寺塔がある。これは宋の太宗の時(10世紀末)に重建された七層の磚塔で高さが約50メートルあり、勿論何回も補修されては来ているが少し傾いており今では危険の為、中には入れません。
「東洋の斜塔」として夙に有名である。

ここで少し時間を掛けたかったが、次ぎに急がねばならない、山を下って「拙政園」に車を走らせた。

「拙政園」は中国4大名園の一つで、1997年世界文化遺産にリストアップされた。
建造は明の正徳4年(1509)となっています。
然し、元々、ここは唐代の文化人「陸亀蒙」の邸宅であった。元代に一度、大宏寺と云う寺になったが、明の代になって官界で志を得なかった御史(検察官)「王敬止」が故郷の蘇州に戻り、ここに別荘に造り替えたものだそうです。

園内は地勢を生かして池を中心に設計され、建物は全て池に面している。
全体に自然を取り入れ、古朴で落ち着いた風格がある。
偶々、その日は午後、曇天となり、時期も中途半端な季節なので、木々にも勢いが無く、花も殆ど無かったが、池の蓮が咲いているような時期の朝など訪れれば、さぞかしその名園振りを楽しめたであろうにと少し残念であった。

その後「拙政園」も所有者が転々と変わり、清代には将軍府など役所に当てられたこともあった由。近くは19世紀後半、蘇州は太平天国軍に占領され軍の執務所にも使われる等数奇な歴史を辿ってきました。

いずれにせよ「拙政園」は単に名庭園としてだけでなく、中国の重要な遺跡の一つであると思います。
その他、蘇州には「留園」「滄浪亭」「獅子林」「怡園」等々中国4大名園、蘇州4大名園に列挙されている見たい庭園は山ほどあるがとても短日時での旅行ではカバーし切れない。又の機会に譲るとしてホテルに戻った。

この日は朝から目一杯の観光だった為、暫しホテルで疲れを癒し、美食の夜へと繰り出した。目指す店は「松鶴楼」何だか江戸の昔、吉原にあった、お店のような名前だが、ここは日本を発つ前から予約しておいた処である。

蘇州bPの清朝以来の老舗である。特に店の主人が「乾隆始創」と今で云うキャッチフレーズを掲げたのが繁栄のポイントになったと云う。
何しろ今では特級・上級の厨師(料理人)50人以上を擁し一度に1000人の宴会が
可能と云う最大級のレストランである。



中央の料理は「田うなぎ」である、これは見た目以上に美味であった。

場所は市内中心部の美食街にあり、美味を求める内外人で大変な賑わいであった。流石は「魚米の郷」と言われる蘇州の老舗だけあって食した料理の味は申し分なかった。