蘇州・上海旅行(4)



翌朝、蘇州より又同じ車で上海に戻った。上海は久し振りである。
以前の訪問は7年前、取引先が開発を始めたばかりの浦東工業団地の一画に開設した工場の落成式に招かれた1995年以来である。

特に、古い上海の象徴だった外灘(バンド)に立ち並ぶ19世紀のビル群と、その黄浦江を鋏んでの対岸浦東地区には、その当時は高い建物はテレビ塔位のものだった。
その後僅か7年足らずで超高層ビルが立ち並び立派な道路網が整備され、最先端ビジネス地区として完成されているではないか。

以前は農家が中心で高いビルも殆ど無くせいぜい4階建アパートが建ち始めたばかりだった。勿論、相当なスピードで開発が進み大変容を見せるだろうと予期はしていたし、事実、年々の変化は新聞・テレビ等で理解はしていたが、実際に同じ場所を歩いて余りの激変振りに正直
度肝を抜かれたと云うのが実感である。

特に「金茂大厦ビル」は88階地上420メートル、現在世界第3位の高さを誇っている。無念にもテロに爆破されてしまったニューヨークのトレードセンター・ビルより高いから
驚きだ。



この侭、中国の開放経済が順調な発展を遂げ得るなら東洋のマンハッタンになる事、間違い無いとさえ云われている。むべなる哉である。

上海の変貌振りを書き出せばキリがないが、対照的に古いものも残されている。
その第一は何と言っても年配者には馴染み深いガーデンブリッジである。
今でも橋の石柱に「外白渡橋」とあり、昔の姿が其の侭残されている。
いや意図的に残しているのであろう。

「ガーデンブリッジ」は外灘北端の「黄浦公園」の処からその北側の呉淞江(蘇州河)に
架かっている橋で、アヘン事変後欧米列強が上海に疎外地を開いた時、中国人はお金を払わないと渡れなかったと云う屈辱の橋である。

 その上、黄浦公園も入口に「犬と中国人は立入禁止」の掲示があったと云うから酷い
話しである。

「外白渡橋」の北詰には今でも「上海大厦」の茶色のビルがある。
その裏側は旧日本租界の「虹口」があった処だ。



ここでは懐かしのメロディー、ディック・ミネの「夜霧のブルース」にご登場願わねばならない。“青い夜霧に灯影が赤い”で始まり“夢の四馬路(すまろ)か、虹口(ほんきゅ)の街か・・”と続く、果して今の日本人で、何才までの方が歌えるだろうか。
四馬路とは戦前・戦中赤い灯,青い灯で賑やいだ歓楽街であった。

家内と二人で橋の南詰にある友誼商店の3階喫茶店で、念の為、若い店の女性に話して見たが聞いた様にも思うが良く知らないと云う。
「東洋の魔都」上海、中国人にとっては屈辱の悪夢も今の世代には遠い昔話として忘却の
彼方に去りつつある。
有り難いことであると同時に私もそれだけ歳を重ねたのかと時の移ろいを感じさせられる
一時であった。



<筆者の後ろ緑の△屋根が和平飯店>

ホテルは外灘の中心南京路との角、上海の絵葉書には必ず登場する「和平飯店」にした。
1920年代の建物だが最近内装を全面修復し五つ星ホテルとして甦ったと聞き選んだ。
東京ならば昔の帝国ホテル旧館である、天井も高く装飾も確りしている。
然し、全面修復とは云え70年以上の歳月を経ている所為か、若干不具合の個所も散見されたが、地の利が良いしその上、屋上ベランダから観る夜景は見応えがある。

夜は同ホテルの8階「龍鳳庁」で個室を取り最高の四川料理を堪能させて貰った。
ここは昔から出張で来た際は大事なお客の接待で良く使った店だが、以前以上に料理の選定も垢抜けしており若し行かれるなら是非お薦めしたい四川料理店である。
四川料理は“辛くって”と云われる方には前以って頼んで置けば、それなりに日本人の舌に合わせて貰うことも可能である。

食事の後1階に下り予約済みのジャズ・バーだ。
最近は観光客も増えたことから予約無しでは良い席は確保できない。
“Old Jazz Bar”それは租界時代を偲ばせる響きである。何時の時だったか記憶が薄れたが文化大革命直後に行った時は一時中断されていて、土産物売り場になった時代もあったが、すっかり旧に復し「和平飯店」名物ジャズバーの面目を施している。




「老年爵士楽団」平均年齢70才を超えるジャズメンが懐かしいベニーグッドマンやグレンミラーの往時の名曲を演奏している。
勿論、30元も払えば日本の歌のリクエストにも応じてくれるが、私は昔ニューヨーク駐在当時流行っていた曲の連続だから申し分ない。

ウイスキーの力も借りて家内と1曲踊ったが、ダンスは好きな方ではない、家内もそれを知っているからイタリア人らしき旅行客と悦に入って踊っていた。
これぞ国際都市上海の夜である。
バーを出て外灘の散策路を川風に吹かれて酔いを醒ましホテルに戻った。