我々昭和一桁生まれにとって「大国主尊」と言えば、すぐに大国様
しかし「大国主尊」(大己貴尊)
[注]
(*1)「大国」がダイコクとも読めるため、インドのヒンズー教の福の神「大黒天」(だいこくてん)と混同されて
何時の間にか、福の神とされた。しかし、神社の祭神としては全て農業神・医薬、医療の神として祭られている。
(*2)かの有名な魏志倭人伝に「其の国、本亦男子を以って王と為す。
往(いまおさる)七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること暦年、乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼と云う」とある。
それは、出雲の王、須佐之男が九州地方をも征圧していたが、須佐之男の死後、入り婿の大国主が後を継いだ後も、国乱れて収まらず、卑弥呼の娘「多紀理姫」を現地妻としていた大国主も日向の地で死んだため、義母の立場にあった、卑弥呼が女王として立った事実が記されているものと解釈している。
この間が約7−80年あったと云うことである。
(*3・5)一概に渡来系と言っても韓国からではなく、大国主を含め出雲族は北満モンゴリアンである。モンゴルでは昔から又現在でも末子相続である。
(*4)素佐之男尊の別名は(布都斯御魂)(ふしきみたま)と云うが、父は布都御魂(ふつのみたま)子供の饒速日尊(にぎはやひのみこと)(布留御魂)(ふるのみたま)と一族の呼び名は、フシ・フツ・フルと皆モンゴル語名である。
ところで、大国主命は義父の素佐之男尊を助けて出雲と日向を行き来しており、後年は寧ろ日向、今の宮崎県西都市を九州統治の中心地としていて、卑弥呼の三人娘の一人、多紀理姫(又の名を三穂津姫)(*6)を現地妻としており、とうとう出雲に戻ることなく日向で死んでしまった。
従い、大国主命の本当の神社は宮崎県児湯郡都農町にある「日向一の宮」といわれる、「都農神社」であり、そこに大国主は祭られている。
勿論、出雲大社の正殿は大国主命であるが、左殿は九州妻、多紀理姫、右殿に出雲の正妻、須世理姫が祭神で落成は上記、都農神社よりも約500年後の元正天皇の716年である。
それは古事記が書き終わって4年を経た時点であり、天皇家が史実との整合性に苦心した後が窺われる。
(*6)多紀理姫(三穂津姫)又の名を木花咲耶姫(このはなさくやひめ)といわれたほど美しかったと云う。
その二人の間に日向で生まれた末子「事代主」(伊毘志都幣尊)
即ち、世に云う「国譲り事件」である。
出雲の方では、須世理姫との間の末子が武御名方尊
末子相続の原則から言えば、「事代主」が継ぐべきではあるが、須世理姫やその子、武御名方尊がハイそうですかと言えば何も問題が起きなかったのだが、事実事態はそう甘くはなかった。
そうでなくとも、夫の大国主が日向の若い妻「多紀理姫」
武御名方尊も自分は神聖な出雲の相続人である、その上、剛毅な性格であり、平素から父、大国主の気の弱さ、だらしなさに憤慨していたので、絶対反対である。
その為、九州勢も一度は出雲から引いて、先ず、九州だけでも「事代主」を立てて独立し、力を付けてから改めて出雲から武御名方尊を追放しようと決心する。しかし、その時、未だ事代主が若かった為、誰か政治の代行者が必要となった。
そうなると、もう大日霊女貴尊
その後も「天御中主神」
そうした上で、改めて西暦220−221年頃、「事代主」と母親「多紀理姫」(三穂津姫)(*9)を擁して、「天児屋根」
何しろ末子相続の時代だから事代主
その為、心情的に同情はしても他の出雲の族長たちも実力で武御名方尊を擁護しきれなかったものと思う。松江大橋川を鋏んでの攻防戦は簡単に終ってしまったようだ。
むしろ、武御名方尊は観念して、ある程度の手兵を残して、北陸海岸沿いに逃げ、最後は信州諏訪(*10)に落ち延びたのである。
何故、あのような信州の山奥の地に、出雲の神を祭る大きな「諏訪神社」が存在するかの理由はここにある。
以上が世に云う「出雲国譲り」の顛末であり、2−3世紀のわが国の真相でなかろうか。
[注]
(*8)天御中主(あめのみなかぬし)神皇産霊神(かみむすびのかみ)高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は皆、卑弥呼(大日霊女貴尊)(おおひみこむちのみこと)の愛人達である。
当時は中華思想で漢人以外の他国人を蔑んで呼ぶ習慣から「日霊女」(ひみこ)を「卑弥呼」(ひみこ)と魏史倭人伝に書いたもので「卑弥呼」=「天照大神」と理解すべきと思っている。
天照大神は大日霊女貴尊をモデルにして作り上げられた架空の人物と解釈している。
(*9)日向軍が攻め入った時、出雲半島の先端、今の美保ガ関に「事代主」と「多紀理姫」(三穂津姫)が残っていたが、今でも、この場所に美保神社があり、両人が祭られている。
(*10)武御名方尊は二度と諏訪を出て出雲に戻らないと約束した為、 全国の神様が出雲に集う10月「神無月」